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道化姫

by kanze on 2012年8月7日

生まれて初めて、好きな人が出来ました。
その人は窓際の席に座っていて、いつも窓の外を眺めていました。
窓から差し込む日の光に当たって、その人の髪はキラキラと天使の輪みたいに輝いて……。

 

1 視線

私の視線は今日も、気付けば窓際の席に向かっていました。
「ねえねえ、昨日の月9に出てた松浦君、マジカッコ良くなかった!?」
「えー、松浦君より同じグループの宮下君の方がカッコいいってば!」
私のすぐそばでは、私の机の上に雑誌を広げながら、友達のハルチとノンちゃんが芸能人で誰が一番カッコいいかを話していました。
「ねえ、姫子は誰が一番好きなの?」
「私? うーん、私は……」
「あー、無理無理! 姫子ってばそういうの全然興味ないんだもん。まだ、お子ちゃまなのよね~」
そう言ってハルチは、私の頭をぽんぽんと叩きました。
「確かに。姫子、あんたの見た目なら、制服着てても小学生料金余裕だもんね。安上がりで羨ましー」
「もう、二人とも頭触るのやめてよ~!」
みんなは私が子供っぽいと、よくからかって遊びます。
私は背もクラスで一番低くて、まっすぐ切り揃えた前髪と襟足が余計に幼く見えるのだと友達は言います。
クラスでは髪の毛を茶色く染めたり、お化粧をしている子もいます。
そんな着飾った子達と比べたら、確かに私は子供っぽいかもしれません。
ちょうどその時。
トイレから帰って来たのか、稲葉さんが教室に入って来ました。
稲葉さんは腰まで届きそうな長い髪を茶髪に染め、お化粧もしています。
とても美人なのですが、いつもどこかピリピリした雰囲気を持っていて、あまりクラスの子達と仲良くしようとしません。
ギロリ。
私の視線に気付いたのか、稲葉さんは眉間に皺を寄せ、鋭い視線を私に向けました。
その視線に驚き、私は慌てて視線を下に向けました。
「あんたさ、もしかして恋もした事ないんじゃないの?」
そんな私に気付かないまま、ノンちゃんが私に尋ねます。
ノンちゃんの言葉に、私はつい言葉を返してしまいました。
「わ、私だって好きな人くらいいるもん」
「え、誰!?」
「だ、誰って……」
その時、無意識に窓際の席を見てしまいました。
「あ~姫子ってば、宇喜田君の事が好きなんでしょ」
私の視線に気付いたハルチが、にやにやした顔で私を見ます。
その時、窓際の席にいた宇喜田君が偶然私の方に振り向き、一瞬目が合ってしまいました。私は慌てて視線を反らすと、再び下を向きました。
心臓が……まだドキドキします。
「ち、違うよっ!」
私は慌てて、ブンブンと思いっきり首を左右に振りました。
けれどハルチとノンちゃんは、にやにやと面白そうな顔をして、私を見ています。
「ほ~んと姫子ってば分かりやすいんだから。でも、宇喜田君かあ……彼、イケメンだから狙ってる子も多いのよね~。うちのクラスもだし、他のクラスもさ」
「そうそう、それにさ。こんな噂あるの知ってる? 宇喜田君が稲葉さんと付き合ってる……って噂」
「うっそ、それマジ?」
その途端、話に秘密の匂いが漂い、声のボリュームを落としたヒソヒソとした話し声に変わりました。
「何でもさ、あの二人昔からの幼なじみらしいのよ」
「え、でも稲葉さんって二年になってから引っ越して来たじゃん」
「それがさ、小4まではこっちの小学校に通ってたんだって。でも、ある事があって引っ越して……」
「ある事って?」
ノンちゃんが聞き返すと、ハルチは困ったような顔をして言葉を詰まらせました。
「うーん……でもこれ、お母さんから言うなって言われてるしなあ……」
「なにそれ! ここまで話したなら言ってよ!!」
「じゃ……他には絶対に話さないでよ?」
そう前置きをして、ハルチは何やら神妙な顔をして話し出しました。
「小4の時、稲葉さんのお母さんって自殺したんだって。それがあったから、一時期よそへ引っ越したらしいの」
「うっそん、めっちゃヘビーじゃん……」
話を聞いたノンちゃんの眉間に、さっと皺が寄りました。
自殺……稲葉さんのお母さんが?
「絶対、言わないでよ! お母さんにもすっごい釘刺されたんだから!」
「わかった、わかったってば。しっかし、そんな事情があるなんてね……」
「ねー。でもさ、小学生で離れ離れになった幼なじみと中学で再会なんて……はあ……ある所にはあるのね、漫画みたいな出会いがさ」
それからハルチとノンちゃんは、知り合うならどんなシチュエーションが一番素敵かという話で盛り上がっていました。
そんな二人を横目で見ながら、私は稲葉さんと宇喜田君を交互に見つめていました。
そっか……そうなんだ。

 

2 愚鈍

ピアノ教室からの帰り道、私は速足で家へと急いでいました。
額からはじわりと汗が滲み、頬を伝います。
いつの間にか、すっかり夏になっていたようです。
空の端はまだ明るく、夜と昼の間の夕闇色を空に映し出していました。
本当なら、まだこの時間はピアノの時間です。
でも、今日は頭が痛いといって早退して来ました。
中学二年生になってから入ったピアノ教室では、私は小学校低学年の子達と一緒にピアノを習っています。
それまでピアノを習った事がなかったので、まだピアノは簡単なものしか弾けません。
私は小学生の子達よりも覚えが悪く、年下の子にいつも馬鹿にされます。
ピアノに興味がないのも、原因なのかも知れません。
じゃあ何で興味もないピアノ教室に通っているのか。
それはお母さんに言われたからです。
私の事を決めるのは、いつもお母さんだから。

「姫ちゃんに長い髪の毛は似合わないわ。髪は短い方が、姫ちゃんの魅力を一番引き立ててくれるのよ」
「そうなの?」
「ええ、姫ちゃんの事は、ママが一番分かってるもの。さ、こっちにいらっしゃい。ママが姫ちゃんの髪を切って上げるから」
私の髪を切るのも、いつもお母さんの仕事です。
私が髪を伸ばそうと思っても、その前にお母さんが切ってしまいます。
私は本当は、お母さんみたいに長い髪にしたいのに。

そんな事を考えている内に、いつの間にか家へ着いていました。
一軒家の建物の一階には、煌々と電気が付いています。
「……」
私はぼんやりした明りを見つめながら、深呼吸して家の中に入りました。
「ただいま~!」
私は出来るだけ大きな声を張り上げ、帰宅の合図をしました。
少しして、部屋の奥からお母さんが顔を出しました。
「どうしたの、姫ちゃん。まだピアノのお稽古の時間じゃないの?」
「ごめん、ちょっと頭が痛くて帰って来ちゃった」
「あら、大変! お薬飲む?」
「ううん。少し横になればよくなると思うから……」
私はそう答えると、居間に向かいました。
「あれぇ、高城先生」
「やあ、こんばんは、天音さん」
居間には、 私のクラスの担任の高城先生がいました。
「姫ちゃん、あなたが学校で先生からPTAの書類をもらい忘れたから、高城先生がわざわざ書類を届けに来てくれたのよ」
「え、そうだったんだ。高城先生、ありがとうございます」
私は高城先生の方を向いて、ぺこりとお辞儀をしました。
「いや、ちょうど近くを通ったもんだから、ついでにね」
高城先生は白い歯を見せながら、はにかむような笑顔を私に向けました。
高城先生は女の子にとても人気のある先生です。
先生が笑顔一つ向けるだけで、そこにいる女の子達からきゃあきゃあと黄色い歓声が上がるほどです。
きっと今の笑顔をその子達が見たら、同じ事になると思います。
「それじゃ、用が済んだので僕は帰りますね」
「せっかく届けにいらしてくれたのに、何のお構いも出来ずにすみません」
「いえ、お気になさらず。それじゃ天音さん、また明日学校でね」
「はい、先生さようなら」
先生はソファから立ち上がると、私の横を通り過ぎ玄関に向かいました。
お母さんも、先生の後に続きます。
「姫ちゃん、ちょっとおでこだして」
先生の送り迎えが終わったお母さんが、居間へ戻って来ました。
ぼうっと突っ立ったままの私を引き寄せると、おでこをくっつけてきました。
「……熱はないみたいね」
ぴったりとおでこを合わせると、自然と目線がお母さんの胸元に向かいます。
お母さんはブラウスのボタンを掛け違えている事に気付いていませんでした。
きっと、慌てて服を着たんだろうなあ。
私はぼんやりとそんな事を思いながらお母さんから離れると、冷蔵庫の中に入っている麦茶を取り出し、ぐっと喉に流し込みました。
ひんやりしたものが喉を伝い、一気に胃に流れて来ます。
でも、一気に麦茶を流し込んだせいで途中で気管支に入ってしまい、私は盛大にむせてしまいました。
「あらら、姫ちゃん大丈夫?」
お母さんが慌てて、私の背中をさすります。
「……うん」
私の中にあったもやもやしたものを麦茶でお腹の中に流し込んだ後、私はお母さんに笑顔で言いました。
「外は暑くてやんなっちゃう。やっぱり家が一番だね」

 

***

 

「……姫子ちゃんは、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ、あの子はピアノのレッスンに行かせてるの。ふふっ、あなたとの時間を作るためにね……あっ…」
「悪い人だ、ここをこんなにして……そんなに僕に触れて欲しかったんですか?」
「んっ……焦らさないで……早く……」
ガシャン!
壁に叩きつけたボイスレコーダーは、変な音を立てて壊れてしまいました。
「あ~……新しく買ったばかりなんだけどなあ」
また、新しいのを買って来なきゃ。
床で壊れたままのボイスレコーダーもそのままに、私は枕に顔を埋めました。
枕にはラベンダーのポプリが入れてあって、息を吸い込むと体中、花の香りに包まれます。
今までは、それでとても落ち着いた気持ちになれたのですが、今は花の香りに包まれても体の中にある嫌なものが消えてくれません。
でも、そんな時は大好きな人の顔を思い浮かべればいいんです。
恋をするって素敵な事です。
嫌なことがあっても、その人を胸に思い浮かべるだけで幸せな気持ちになれるんだもの。

 

3 発露

今日は特別教室の掃除当番です。
私の学校は出席番号順で掃除の場所を割り振られるので、稲葉さんと宇喜田君も一緒の掃除当番なんです。
同じ当番の大石君はよく掃除をさぼるので、特別教室には私と稲葉さんと宇喜田君しかいません。
「ちゃっちゃと終わらせちゃおうぜ! 俺と稲葉は掃き掃除するからさ。天音は、黒板周りをお願いな」
「う、うん」
稲葉さんはクラスのよく掃除をさぼる女の子達と同じように、茶髪でお化粧をしていますが、掃除をさぼった事はありませんでした。
ちらりと彼女を見れば、黙々と掃除をこなしています。
私も、頑張らないと。
私は黒板に向かうと、まず黒板消しをクリーナーで綺麗に掃除しました。
そして綺麗になった黒板消しを持って、黒板を拭き始めました。
「うーん……」
でも私の身長が足りず、上の方まで届きません。
私はその場でぴょんぴょんとジャンプしながら、何とか上の方まで拭こうと頑張って腕を伸ばしました。
「貸してごらん」
何度か挑戦していると、後ろで宇喜田君の声が聞こえて、ひょいっと黒板消しを持ち上げられました。
「悪い悪い、天音の背じゃ上の方まで届かないもんな。黒板は俺がやるよ」
「あ、ありが……」
宇喜田君にお礼を言おうとした矢先、稲葉さんの鋭い声がそれを阻みました。
「背が届かなかったら、椅子でも使えばいいでしょ。アンタ、他人の助けがないと自分で何にも考えられないワケ?」
眉間に皺を寄せて、稲葉さんがじろりと私を睨むように見ました。
「おい、何もそんな風に言わなくてもいいだろ」
「う、ううん。そうだよね。私、馬鹿だから椅子を使うとか思い付かなくて……椅子に乗って拭くから、大丈夫だよ」
「……そうか?」
私の言葉に宇喜田君は黒板消しを返すと、自分の掃除に戻っていきました。
「稲葉さん、教えてくれてありがとう」
笑顔で稲葉さんに言葉を返すも稲葉さんは一瞬、こちらに視線を向けただけで、すぐに視線を反らしてしまいました。
「……」
私は椅子を引いてくると、上履きを脱いでその上に乗り、黒板を拭き始めました。
椅子に乗れば、私の身長でも上の方まで届きます。
私は今までの遅れを取り戻すべく、一生懸命黒板を拭きました。
早く終わらせないと、私のせいで二人を待たせてしまいます。
けれどその焦りが災いしたのか、ふとした拍子に黒板消しが手から滑り落ちてしまいました。
「あっ……」
さらに運の悪い事に、下にはちょうど稲葉さんがいて床の掃き掃除をしていたのです。
「…っ!」
黒板消しは稲葉さんの頭上に落ち、チョークの白い粉が稲葉さんの髪と肩に舞い散りました。
「ご、ごめ……」
「あんた、ワザとやったでしょ!」
私が謝るより早く、稲葉さんの怒鳴り声が教室に響きました。
「違う、私ワザとじゃ……」
キッとこちらを睨みつける稲葉さんに、私はか細い声を上げて否定する事しか出来ませんでした。
ピリピリとした空気が辺りを包んでいくのを、肌で感じます。
「お、おい。お前ら落ち着けって……」
「またそうやって黙ってれば、誰かが助けてくれるとでも思ってんの? ……あんたみたいな女、あたしほんと大ッキライ!!」
稲葉さんは吐き捨てるように私に言うと、おもむろに出口へと歩き始めました。
「おい、どこ行くんだよっ!」
「チョーク落としに行くに決まってんでしょ。あたし、このまま帰るから後は二人で勝手にすれば」
ピシャリと乱暴にドアを閉めた音が、響きました。
「……」
「……ごめんな天音。あいつ、口調はきついけど悪い奴じゃないんだ。今日は多分、虫の居所が悪かったんじゃないかな」
「……詳しいんだね、稲葉さんのこと」
「え? ああ。実は咲とは幼なじみなんだ」
咲。
宇喜田君が稲葉さんを呼び捨てにした言葉が、私の胸にズキリと刺さりました。
ズキリ。
すると今度は、なぜかお腹の奥まで、ズキズキと痛くなって来ました。
……何だか、体がふらつきます。
お腹の奥の痛みは渦を巻くように、ぐるぐると私の中を回っています。
ぐるぐる。
ぐるぐるぐるぐる。
お腹……痛い。
何かが……私の中から出ようとしている。
お腹の中にため込んだ悪いものが、内側から食い破ろうとするみたいに。
駄目……出て来ないで!!
「天音!?」

 

***

 

「……」
目が覚めると、ぼんやりとした白いタイルが目に映りました。
「気が付いた?」
声の方へ顔を向ければ、保健の先生が私の顔を覗き込んでいます。
「あなた、掃除の途中で倒れたのよ。覚えてる?」
「……はい」
段々と頭がはっきりしていくにつれ、倒れた時の事を思い出して来ました。
「私、足元がフラついて椅子から落ちて、それで……」
「意識は、はっきりしてるみたいね」
保健の先生はほっとした顔をすると、私の頭をぽんぽんと叩きました。
「椅子の上なんて不安定な場所で立ちくらみを起こしたら、頭を打って脳震盪を起こすのも無理ないわ。近くの病院には連絡してあるから、念のために病院で検査を受けて来てね」
「……わかりました」
そう言って上体を起こした時、下腹部に妙な違和感を感じました。
布団を上げてみると、私はなぜかスカートではなく体操服のスパッツを穿いていました。股の間のもごもごとした感触から、間に布のようなものが宛がわれているようです。
「制服が汚れるといけないから、体操着のスパッツを下に穿かせておいたわ。さすがにパンツまでは脱がせられないからね。今日はナプキン持って来てる?」
「え?」
ひどく驚いた私の様子を見て、保健の先生の目が驚いたように見開かれました。
「もしかして、初経だったのかしら?」
「私……生理になったんですか?」
「初経にしては量が多いけど……ま、生理なんて個人差が大きいからね。初めてじゃ、びっくりしたでしょ。保健室のナプキンを分けてあげるから、着替える時に付けておいてね」
「天音さん、大丈夫かい!?」
「高城先生……」
その時、保健室の扉が勢いよく開いたかと思うと、慌てた様子の高城先生が入って来ました。私を見てほっとしたような表情を浮かべた後、つかつかと私のいるベッドまで近付いて来ます。
「目を覚まして安心したよ。気分はどうかな?」
「はい、大丈夫です」
「親御さんに連絡したんだけれど、今日は遠出をしているようで、すぐにはこっちへ来れないそうなんだ。だから天音さん、先生と一緒に病院に行こうか」
「……」
高城先生の言葉に、私はじっと先生の目を見つめました。
「あの……大丈夫です、一人でも行けますから」
「しかし、担任として生徒をこのまま……」
「一人でも大丈夫ですから!!!」
「……天音、さん?」
「あ……」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出て、私は思わず自分の口を塞ぎました。
ちらりと高城先生を見ると、先生も私と同じように驚いた様子で私を見ています。
……私が、こんなに大きな声を張り上げるとは思わなかったんだろうな。
「ごめんなさい。でもこれ以上、皆に迷惑を掛けたくないから……」
「……わかった。そうだ、教室から天音さんの荷物を持って来たんだ。ついでに渡しておくね」
「ありがとうございます」
高城先生はいつもの表情に戻ると、抱えていた鞄を私に手渡しました。
「宇喜田君も心配してたよ。君を保健室に運んだのは宇喜田君だからね」
「宇喜田君が……」
「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。また明日学校でね、天音さん」
高城先生は最後にもう一度私に笑い掛けると、保健室を出て行きました。
宇喜田君……明日、お礼を言わなくちゃ。

 

***

 

「姫ちゃん、今日は本当にごめんね。ママ、病院に付き添えなくて……」
夕食の時間、お母さんは病院に来れなかった事を私に謝りました。
「ううん、気にしないで」
「でも検査結果が何もなくてママ、ほっとしたわ~。ふふ、それにしても椅子から落ちて気絶しちゃうなんて姫ちゃんってホント、いくつになっても、おっちょこちょいね」
お母さんはニコニコと嬉しそうな顔をすると、私の鼻頭をちょこんと指でつつきました。
「……えへへ、私ってドジだから」
「そう言えば病院への付き添い、高城先生が一緒に行くって言ってくれたのに、姫ちゃん断ったんですって?」
「……」
「姫ちゃんはまだ子供なんだから、こういう時は遠慮せずに大人の人に頼らなきゃ。ただでさえウチは、パパが海外に長期出張で家に男の人がいない状態なのよ。高城先生もそんな心許ない我が家の状況を心配して、何かと姫ちゃんに声を掛けてくれるんだから」
カチン、カチン。
お母さんの話を聞き流している内に、気付けば私は夕食のスープ皿にスプーンを何度もカチカチとぶつけている事に気付きました。
「姫ちゃん。お行儀が悪いから止めなさいって、ママ前にも注意したでしょ!」
「あ、うん、ごめんなさい」
「はあ……ほんっと姫ちゃんはマイペースなんだから。そんなんじゃいつまで経っても、目が離せないわね」
「お母さん。私、生理が来たの」
「え……?」
突然切り出した言葉に、お母さんは目を丸くして私を見ました。
ぽかんと口を開け、大きく見開いた瞳に私の顔が映っています。
「そ、そうなの。もう、お夕飯前に言ってくれたらお赤飯炊いたのに~」
お母さんは、ぱっと顔を明るくさせると、私の肩をぽんぽんと軽く叩きました。
「ママが生理になったのは小学校六年生の時だったの。それなのに姫ちゃんったら、中学二年生になっても生理が来ないから心配してたんだけど、やっと来て良かったわねえ」
「うん」
「姫ちゃんも大人の仲間入りか……ママ、ちょっと淋しいかも」
「……大人?」
「ええ、生理になるって事は、体が大人になる準備が終わったって事だもの」
「……ふうん」
今まで生理が来なかったのは、恋をした事がなかったからだと思います。
きっと恋をすると、子供の魔法が解けて大人になるんです。

 

***

 

「……」
今日は色々あったけど、少しだけ話が出来て良かったな。
それだけで今日一日、とっても幸せな気持ちになれます。
「うっ……」
その時、ズキリとお腹の奥が痛くなりました。
まるで、私の幸せな一時を邪魔するかのように。
「……うーん」
私はお腹をさすりながら、ぼんやりと思考を巡らせました。
そうか……世の女の子は、こんな忌々しいものと毎月戦っていたんだ。
私は自分に生理が訪れた事が遅くて、好運だと思いました。
でも出来る事なら、ずっと来ない方が良かったのに。

 

4 夜気

「……」
何だか眠れなくて、私はベッドから起き上がると寝巻から私服へ着替えました。
窓の外には、私の知らない夜の街が広がっています。
せっかく大人になったのなら、大人になった記念に少し冒険をしてみよう。
私は音を立てぬよう、そっと一階へ降りました。
一階は、電気が消えひっそりとしています。
お母さんの寝室へそっと目をやってみると、ドアは硬く閉じられていました。
それを見届けた後、私は玄関のカギを外しドアノブへ手を掛けました。
ドアノブへ触れた瞬間、ひんやりとしたその冷たさに、ぞくりと背中が震えました。
……私ったら、こんな事で怖がって情けないなあ。
ふう、とため息を一つ吐いて、私はお腹にぐっと力を入れると再びドアノブを握りました。
「……」
僅かに開けたドアの隙間から、夜の気配が忍び込んで来ます。
その夜気に誘われるまま、私は扉を開け、外へと一歩踏み出しました。

夜の街は静かで、同じ街を歩いているはずなのに違う街を歩いているかのようです。
帰り道、いつも灯りがついていたあの家も、この家も、どの家も今は灯りが消え、ぼんやりとした街灯の中に、そっと佇んでいます。
携帯電話の画面は、午前三時を表示していました。
こんな時間に外に出たのは、もちろん初めての事です。
夜の空気はどこか昼のそれよりも透明で澄んでいるような気がします。
その澄んだ空気に混じり、少し湿った感じの夏の匂いが私の体を通り過ぎていきます。
知らなかったなあ。
夜の散歩が、こんなに気持ち良いものだったなんて。
気持ちを弾ませながら夜の住宅街を抜け、気付けば私は大通りに来ていました。
舗道に設置された街灯が、転々と道を照らしています。
いつもはひっきりなしに車が行き交う通りも、さすがにこの時間は数台の自動車が時たま通る程度でした。
「ん……?」
その時、私のいる反対側の車道に車が止まりました。
「あれは……」
何となくその車を見つめていた私は、車から降りて来た人物が目に入った途端、声を上げずにはいられませんでした。
車から降りて来たのその人は、私と同じ中学の制服を着ていました。
夜風が吹き、少女の長い髪が風になびきます。
あれは……あれはもしかして、稲葉さん?
彼女の腰まである長い髪を、私はよく覚えていました。
街灯の下、薄ぼんやりとした灯りの中でも、その人が稲葉さんであるという事が、私にはすぐ分かったのです。
私は何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、とっさに体を植え込みの後ろへ隠しました。
稲葉さんが下りた後、背広姿の男の人が運転席から出て来ました。
ぱっとした見た目の印象から、年は私のお父さんくらいか少し下くらいに見えます。
その男の人は、すぐに立ち去ろうする稲葉さんの手を掴むと、自分の体に引き寄せました。
「わっ……!」
目を覆った指の間から見えたのは、キスをする二人の姿でした。
無理やりキスをされた稲葉さんは、最初は抵抗する様子を見せていましたが、しばらくすると男の人の求めに応じるように腕を男の人の首に絡めていました。
「……」
心臓が……早鐘のようにどくどくと鳴っています。
くらくらとした眩暈のようなものを感じて、私はその場に倒れるように座り込んでしまいました。
けれど瞳は二人に釘付けになったままで、目を逸らす事が出来ません。
……長いキスが終わると、男の人は背広からタバコを取り出しました。
続いてライターを取り出した時、稲葉さんがそれを取り上げ、男の人のタバコに火を付けました。
ライターの火が、稲葉さんと男の人の顔を照らします。
二人は何やら言葉を交わしていましたが、こちらからでは何を話しているのかまでは分かりませんでした。
やがて、タバコを吸い終えた男の人は再び車に乗り込むと、車は派手な音を立てて夜の街に消えていきました。
静けさを取り戻した大通り。
稲葉さんは車を見送った後、手元をじっと見つめたかと思うと、持っていた何かを力いっぱい地面に叩きつけました。
金属を叩きつけたような乾いた音が、周囲に響きます。
稲葉さんは地面に叩きつけた何かを一瞥した後、近くの脇道に入ってしまい、見えなくなりました。
「……」
一体、稲葉さんは何を地面に捨てたんだろう。
私は、フラフラと覚束ない足取りで立ち上がると、反対側の道へ歩き出しました。
地面には、金色をした四角いライターが落ちていました。
これって、さっき男の人が持っていた……?
私はおもむろに地面に落ちているライターを拾い上げると、街灯の明かりに照らしてみました。
アスファルトに思いっきり叩きつけられたせいか、僅かですが薄い傷のようなものが表面に出来ていました。
ボタンを押してみると、紅い火花を散らしながら、炎が勢いよく燃え上がります。
その炎を見つめながら、私はさっきの光景を思い出していました。
あの男の人と稲葉さんは、一体どういう関係なんだろう。
「うーん……」
稲葉さんとあの男の人の関係。
何だかそこには私が踏み込んではいけない、暗くドロドロとしたものが横たわっているような気がしてなりませんでした。
暗く、ドロドロした……。
「……うっ」
まただ。また、お腹が痛くなって来た。
さっきまでは大丈夫だったのに、どうしていきなり痛くなって来たんだろう。
うねるように蠢く腹部をさすりながら、私の視線は自然と稲葉さんが消えた脇道へと向かっていました。
「……」
手にずっしりとした重みを感じるライターをポケットに仕舞うと、私はその場を駆け出しました。

 

5 炎

「ねえねえ、聞いた? またあったんでしょ不審火?」
「うん、今月入っただけで4件だっけ? 怖いよね~」
夏休みを前にして、普通なら夏休みの予定についての話題で湧くはずの教室は、最近、周辺一帯で頻発している不審火についての話題で持ち切りでした。
「姫子の家の近くのゴミ捨て場でもボヤ騒ぎがあったんでしょ? ねえねえ、警察とか事情聴取に来たりした?」
「う~ん……あ、そう言えば私がピアノ教室に行ってる間に、警察の人が来たってお母さんが言ってた」
「ひえ~、やっぱ本当に警察の人が事情聴取に来たりするんだあ~!!」
私の話を聞いて、きゃいきゃいと二人は楽しそうです。
「皆、HRを始めるから席について」
「あ、やばっ」
高城先生が教室に入って来たので、慌てた様子で皆が席へとつきました。
「……皆も知っていると思うけれど、最近ここ一帯を中心とした不審火が多発しているんだ。警察や消防も周囲の警戒を強めてはいるけど、またいつ発生するとも限らない。君達も下校の際は不審者などに注意して、もし怪しい人を見掛けたら必ず警察に連絡するんだよ」
「はーい」
「それと……天音さん。放課後、職員室に来てくれないかな。PTA関係の書類で君に渡したいものがあるから」
「あ……はい、わかりました」

 

***

 

「とうとう、学校のHRでも不審火の事、話題になっちゃったね~」
「あたし下校途中に放火してる人、見つけちゃったらどうしよっ!? ねえねえ、護身用にアラームとか買って持って置いた方がいいかな?」
「……」
「姫子? どうしたの、ぼうっとして?」
「え、ぼうっとしてた、私?」
「朝だからまだ眠いのよね~、姫子は」
「うーん。実は最近中々寝付けなくて……」
「マジで? だから、ここんところ授業中、いっつも眠そうにしてたんだ~」
最近、私はあまり夜に眠れていません。
夜になってお布団の中に入ると、頭の中に色々な考えが浮かんで来て眠れなくなるのです。
「ま、眠れない事ってあるよね。私もさ、最近寝不足なんだ~」
「のぞみ、あんたの場合はケータイで知り合った彼氏と夜遅くまで話してるせいでしょ」
「へへ、だって彼と連絡取れるのが夜だけなんだも~ん」
二人の会話を聞き流しながら、私の視線は宇喜田君に向かっていました。
気を失った次の日、クラスでは私が掃除中に気絶した事が知れ渡っていて、皆から色々と質問攻めにあいました。
宇喜田君が私を保健室に運んでくれた事を話すと、私と宇喜田君の事を茶化す子まで出てきたりして、その日一日はひどく騒々しかった事を覚えています。
ただ稲葉さんだけは、私の事を睨むような視線でずっと見つめていました。
稲葉さんは今日は学校に来ていません。
稲葉さんは月に何度か、必ず学校を休みます。
……もしかしたら、私がこの間見た事と何か関係があるのかもしれません。
「ふあぁ……」
窓から差し込む朝の爽やかな日差しを受けて、いつの間にか私の考え事もまどろみの中に消えていきました。

 

***

 

「はい、これをお母さんに渡しておいてね」
「わかりました」
放課後。
職員室に来た私は、高城先生から封筒に入った書類の束を受け取りました。
「いやあ、それにしても天音さんのお母さんには、PTAの役員を積極的にこなしてもらって助かってるよ」
「そうですか」
私は短く返事を返すと、封筒を入れようとリュックを開きました。
けれど封筒が大きくて、中々上手くリュックに入ってくれません。
「……天音さんは、お母さんとは仲が良いのかい?」
封筒と悪戦苦闘する私に、高城先生が質問をして来ました。
「いきなり、どうしたんですか?」
思わず顔を上げ、じっと高城先生の顔を見つめます。
「いや、ただの純粋な興味さ。最近の子は親と、どういうコミュニケーションを取ってるのか気になってね」
「……」
質問をされたら、答えないといけません。
私は頭の中をぐるぐるさせながら、言葉を探しました。
「別に……ふつうだと思います」
「普通かあ。その普通がどんなものか知りたかったんだけどな」
高城先生は苦笑しながら、私の顔を見つめました。
「すいません、私これからピアノ教室があるので、失礼しますっ!」
私は高城先生にお辞儀をすると、逃げるようにその場を後にしました。

「はあっ……はあっ……」
職員室を抜け出し、廊下まで一気に走り抜けた所で、呼吸が限界を迎え、私は立ち止り息を整えました。
高城先生は、なぜあんな事を私に質問したのだろう。
呼吸を整えながら、私は何か言い知れぬ不安のようなものを覚えました。
……気付かれたかもしれない。
そしてそれを、高城先生はお母さんに話すかもしれません。
今日は私のピアノ教室の日。
恐らく高城先生は、私の家に来るでしょう。
「……」

ポケットの中のライターをぎゅっと握りしめながら、私はピアノ教室を抜け出す算段を考え始めたのでした。

 

……その日の夕暮れ。
空に、けたたましいサイレンの音が響き渡りました。

 

6 接近

「……」
今日も教室はざわざわと騒がしいです。
じろじろとクラス中の視線が私に向けられているのを、肌にちくちくと感じます。
それと同時に、ひそひそと囁く声が私の耳に入ってきます。
けれど扉が開いて教頭先生が入って来ると、ひそひそ声はぴたりと止みました。
教頭先生は、クマが出来た目でちらりと私達を一瞥すると、歯切れが悪そうに話し始めました。
「えー……入院中の高城先生だが、今日の午前二時過ぎに病院で亡くなられました」
教頭先生の言葉を聞いて、周りの数人の女の子達から悲鳴が上がりました。
そしてその悲鳴は段々と、すすり泣く声に変わっていきました。
「……これから葬儀の日程についてのプリントを配るから、高城先生との最後のお別れに、皆さん参列してあげて下さい」
教頭先生はそう言ってプリントを配った後、何個か事務的な連絡をしてHRは終わりました。
教頭先生がいなくなった後も、クラスの女の子達のすすり泣く声は止みませんでした。
……あの日、火が着いた私の家は一階の居間を中心に燃え上がり、半分が焼け落ちました。
お母さんは焼け落ちた居間の中から死体となって発見されましたが、高城先生は家が焼ける前に脱出したため、生きていました。
けれど焼け焦げはしなかったものの、逃げる際に大量の煙を吸い込んだため、長くは持たなかったようです。
「どうして先生が……どうして高城先生が死ななきゃいけないの!? 天音さんのお母さんだけが死ねばいいでしょ!」
「ちょ、そんな大きい声出したら聞こえるって!」
異変に気付いた近所の人達が外に出た所で、半裸の高城先生が玄関から這い出て来るのを目撃したため、噂は瞬く間に周囲に知れ渡りました。
私には【親を火事で亡くしたかわいそうな女の子】と、【担任教師の若い男と不倫する不潔でふしだらな女の娘】という、二つの好奇の視線が向けられています。
いつも私の机の周りに集まっていたハルチとノンちゃんも、今は遠巻きに私の事を見るだけです。
「天音さん、かわいそ~……春野さん達、友達なんでしょ? なんで声掛けないのよ」
「うーん…でも、なんて声掛けていいかわかんないしぃ…」
「そうそう、マジ言葉に困るんだってば! そう思うなら、あんたが声掛けにいけばいーじゃん」
「あ、あたしは、あんまり天音さんと話した事ないし……」
ひそひそ。
「なんか、信じられねえよな。マジでこんな事ってあるんだな」
「俺の母ちゃんが言ってたけど天音のお母さん、派手目の美人だったらしいぜ。あの人だったら若い男くらい引っ掛けそうね~とかこの間の夕飯ん時、話してたし」
「おい、お前ら。こんな時にそういう話すんのやめろって!」
ひそひそひそ。
「よく学校に来れたよね。私だったら絶対無理ー」
「ね~。天音さんってば案外神経図太いんだね」
ひそひそひそひそひそ。
「!?」
突然の大きな物音にひそひそ声は止み、私と皆の視線は反射的に音の方へ向けられました。
「……」
音の主は、稲葉さんでした。
机を蹴り倒したのでしょうか、足を突き出した姿勢のまま、ギロリと周囲を睨んでいます。
「……あんたら、マジうざい」
稲葉さんは、そう呟くと立ち上がり、そのまま教室を後にしてしまいました。
「……なにあれ?」
周囲のざわつきは、私から稲葉さんへとシフトしました。
「稲葉さん……」
そのざわつきを背に、私は稲葉さんの後を追って教室を飛び出しました。

 

***

 

「稲葉さん!」
「あんた、なんでここに……」
稲葉さんは学校の屋上で一人、壁に寄り掛かりながらぼんやりと空を見ていました。
私はあちこち探し回って乱れた呼吸を整えると、稲葉さんへ顔を向けました。
「あの……稲葉さん、ありがとう」
「は? なんでお礼なんて言うの?」
「だって私のために怒ってくれたんでしょ? 教室の……」
「別に、あんたのためじゃなくて私がムカついただけだし」
「でも、ありがとう」
ニコニコと笑顔を向ける私の様子に、稲葉さんは呆れた様子でため息を漏らしました。
「……あんたってほんとお人好しよね」
「そうかな?」
「そうよ」
「……そっか、私ってお人好しだったんだ」
指摘され驚いている私の様子に稲葉さんは目を丸くした後、さらに呆れたような顔をしましたが、その目はどこか優しげでした。
特に会話もしないまま、私と稲葉さんは暫く空を眺めました。
やがて授業開始のチャイムが鳴りましたが、教室に戻る気にはなりませんでした。
今、私達の間に漂う空気は、教室のそれより、とても心地良く思えたのです。
「……今は、どこから学校に通ってるの?」
そんな事を思っていたら、ぽつりと稲葉さんが私に話しかけてきました。
私は稲葉さんが私に興味を持ってくれたのが嬉しくて、嬉々として彼女に話しました。
「あのね、お父さんの方のおじいちゃん家が近くにあるの。だから、そこから今は通ってるんだ。ほら、木村っていうお弁当屋さんの近くの……」
「……ふーん、そう」
「えっと、稲葉さんの家はどこら辺にあるの?」
私は何とか会話を続けようと、稲葉さんに話し続けました。もしかしたら、これを機会に彼女と仲良くなれるかもしれません。
「稲葉さんじゃなくて、咲でいいよ」
「え……?」
私がきょとんとした顔をしていると、稲葉さんはどこか恥ずかしそうな顔をしながら再び言葉を返しました。
「名前。呼び捨てでいいって言ってんの」
「じゃ、じゃあ咲ちゃんって呼んでいい? 私の事も姫子とか姫とか好きな風に呼んでいいから!」
「わかったわ、姫子」
咲ちゃんが私の名前を呼んだ声が、青空に吸い込まれていきます。
夏空の下、私と咲ちゃんは互いに微笑み合いました。

 

7 友達

それから、私は咲ちゃんと一緒にいる事が多くなりました。
学校にいる時も、帰る時も一緒です。
私が咲ちゃんと仲良くしている様子を、皆は不思議そうな顔で眺めていました。
やがて夏休みになり学校がお休みになると、私達はお互いの家を行き来するまでになりました。
「こうも暑いと、外に出るのも嫌になるわね」
「でも私、部屋の中で遊ぶのも好きだよ」
今日も咲ちゃん家の部屋で、二人でのんびりテレビを見ています。
咲ちゃんの家はアパートの二階で、お父さんと二人暮らしです。
夏休みに入って何回か咲ちゃんの家に遊びに行きましたが、まだお父さんに会った事はありません。
「そうだ、今日は泊って来なよ姫子。今日うち、お父さんいないんだ」
「え……いいの?」
突然の咲ちゃんの申し出に、私は目を丸くして彼女を見ました。
「もっちろん。一緒に夕飯作ったりしてさ、夜更かしもしちゃお」
「うん、うんいいね、それ!」
私は咲ちゃんを見ながら、何度も何度も頷きました。
咲ちゃんの家にお泊まりする。
考えただけで、ワクワクしてきます。
だって、お友達の家に泊まるなんて、初めての事ですから。
「じゃあ私、一旦家に着替えを取りに行ってくるね!」
私は咲ちゃんにそう言うと、彼女の家を後にしました。

 

***

 

「おーい、天音!」
「……う、宇喜田君」
自宅に着替えを取りに行き、咲ちゃんの家へ戻る途中、背後から声を掛けられ振り向くと、驚いた事にそこには宇喜田君がいました。
「久しぶりだな! あれ、お前の家ってここら辺だったっけ?」
宇喜田君はあの事件の後もクラスの他の皆とは違い、私に変わらずに接してくれています。
自転車に跨りニカッと笑う宇喜田君の白い歯が、真黒に日焼けした肌に相まって余計に白く見えました。
「あ、ううん……咲ちゃんの家に行く所なの」
「そっか。咲の家に……」
「……宇喜田君は?」
「俺? 俺はこれから佐野の家でべんきょー会。でもすぐゲーム大会になると思うけどな」
自転車の籠に入ったバッグに視線を向けながら、宇喜田君が答えました。
「……天音はさ、咲の家によく遊びに行くのか?」
「うん。夏休みに入ってから、もう何回も遊んでるよ」
「へえ、随分仲良くなったんだなあ」
意外そうな声を上げる宇喜田君に何だか気恥かしさを感じて、私は視線を地面へ落としました。
「そうだ。もうすぐ夏休みも終わるだろ? でさ、夏休みの最後に夏祭りがあるじゃん。佐野達と行こうぜって話してたんだけど、天音も良かったら一緒に来いよ」
「え……?」
思いもよらない言葉に、思わず私は顔を上げ、宇喜田君の顔をまじまじと見てしまいました。
「あの……で、でも……」
宇喜田君になんと言葉を返していいか分からず、私はぐるぐると視線を泳がせるばかりです。
「女の子一人じゃ来づらいかもしれないから、咲も誘ってさ。人数が多い方が絶対楽しいって!」
私がしどろもどろしている内に、宇喜田君はそそくさと夏祭りの約束を取り付けてしまいました。
「それじゃあ、また夏祭りで。……約束な!」
「う、うん……」
宇喜田君は私に大きく手を振った後、自転車をめいっぱいに漕いであっと言う間に見えなくなりました。
「……」
その背中に手を振りつつ、私の心はそわそわと騒ぎ始めました。
宇喜田君と夏祭りの約束しちゃった。
帰ったら、咲ちゃんにも話さないと……。

 

***

 

「……あれ?」
咲ちゃんの家の扉の前まで来た時、中から微かに話し声が聞こえ、私は扉の前で立ち止まりました。
「…って…今日は…」
「いい……その……」
扉を隔てて微かに、咲ちゃんと男の人の声が聞こえてきます。
……もしかして、お父さんが帰って来たのかな?
もし、お父さんが帰って来たのなら、今日のお泊まりは中止になるかもしれません。
私は少し残念な気持ちになりながら、玄関のドアを開けました。
「咲ちゃん、ただい……」
瞬間、目に入って来た光景に私は言葉をなくしました。
「っ……姫子っ…!」
「おや……」
玄関から居間へと通じる廊下の壁。
その壁にもたれ掛かるようにして、咲ちゃんに男の人が覆い被さっていました。
私に気付いた男の人が、こちらに顔を上げます。
「あ……」
この人、あの時の男の人だ……。
「驚いた。咲に、こんな純粋そうなお友達がいるなんてね。君にはちょっと刺激が強かったかな?」
「いいから、今日はもう帰ってよッ!!」
「おお怖い。仕方ない、今日は帰るとしますか。またね、お嬢ちゃん」
男の人はくつくつと籠った笑い声を上げると、固まって動かないでいる私の頭を一撫でして帰っていきました。
「……」
「咲ちゃん、あの……」
「何でもない!! 姫子には関係ないでしょ!!」
「ご、ごめん……」
私に背を向けたまま、咲ちゃんは肩を抱き俯いています。
私は何と声を掛けていいのかわからないまま、その場に佇むだけです。
「帰って……今日はもう、帰ってよ」
「う、うん……」
僅かに肩を震わせる咲ちゃんに、私は何の言葉も掛けられないまま、従うしかありませんでした。
「そ、そうだ」
せめて、さっきの夏祭りの事を咲ちゃんに伝えておかないと。
「咲ちゃんあのね、さっき道で宇喜田君にあったの」
「……」
宇喜田君の名前を出した途端、咲ちゃんの肩の震えがぴたりと止みました。
「それでね、夏休みの最後に神社で夏祭りがあるでしょ? それに一緒に行かないかって、咲ちゃ……」
「出てって!!」
「あ……」
くるりと向き直った咲ちゃんの目は、強い怒りを放っていました。
射るように鋭い彼女の瞳に睨まれ、まるで金縛りにあったかのように体が動きません。
「あんた、どこまで馬鹿で無神経なの!? こんな時にあいつの話をしないで!
いいからさっさと出てってよ!!」
「わっ!?」
彼女に突き飛ばされ、私はアパートの廊下に尻もちをついてしまいました。
尻もちをついた私に一瞬、咲ちゃんは驚いたような顔を浮かべましたが、そのまま勢いよく扉を閉めてしまいました。
「……咲ちゃん」
……それから結局、携帯で咲ちゃんに連絡を取ってみようとしましたが、メールを送っても電話を掛けても、彼女からの反応はありませんでした。
そしてそのまま、夏祭りの日が来たのです。

 

8 夏祭り

「……」
おばあちゃんに着付けてもらった浴衣を着て、私は宇喜田君達を待っていました。
咲ちゃんにも、待ち合わせの時間と場所は伝えてあります。
待ち合わせ場所に咲ちゃんがいる事を期待していたのですが、残念ながら彼女はいませんでした。
でも、咲ちゃんは来ると思います。
だって、咲ちゃんは……。
「天音……?」
名前を呼ばれ振り返ると、そこには宇喜田君がいました。
私の顔を見て、なぜかひどく驚いた顔をしています。
「宇喜田君、どうしたの?」
「いや……へへっ、浴衣着てるから何だか俺の知ってる天音じゃないみたいで、ちょっとびっくりして……」
「うーん……そうかな?」
「うん、すっげー似合ってるよ!」
はにかんだ笑顔を見せる宇喜田君に、私はどういう顔を向けていいのか分からなくなって、思わず下を向いてしまいました。
「あれ、咲は一緒じゃないんだ?」
「あ……」
咲ちゃんの事は、宇喜田君には伏せたままにしてありました。
「ちょっと、咲ちゃんと連絡が取れなくて……でも、メールで今日の事は伝えておいたから、後から来ると思う」
「そっか。後で合流出来るといいな!」
「おーい、宇喜田ー!!」
「お、佐野も来たか。おーい、佐野ー!!」
「よう! …ってあれ。横にいるのって天音か? なんかいつもと雰囲気違くね?」
「だよな、女の子って浴衣着ると雰囲気変わるんだなー」
他の男の子達も合流して、私達は賑わう境内を一緒に歩き始めました。

 

***

 

「……」
お祭りの中、男の子達の後ろをついて歩きながらイカ焼きに綿菓子、リンゴ飴や焼きそば屋さんの屋台などを周っていきます。
「よっし、ゲット!!」
「わあ、すごいなあ宇喜田君。一発でぬいぐるみ取っちゃうなんて……私、全然ダメだったよ」
「いや、こんなん簡単だって! 俺、猫のぬいぐるみなんていらないし、天音にあげようか?」
「え……いいの? ありがとう、宇喜田君!」
思いがけない宇喜田君の言葉に、私は嬉しくなって笑顔で彼に答えました。
「い、いや、そんなに喜んでもらえるなら俺も取ったかいがあったかな、あははは……」
「おいおい、何だよお前ら、なにいい雰囲気になってんだよー!!」
「べ、別にそんなんじゃないって!!」
「ふふっ……ん?」
わいわいと楽しげな宇喜田君を見ていたら一瞬、誰かに見られているような視線を感じ、私は何気なく視線を感じた方へ振り返りました。
「あ……!!」
振り返った瞬間、人ごみの中に咲ちゃんらしき姿を見つけ、私は思わず声を上げました。
「どうした、天音?」
「今、咲ちゃんがいたの! 私、ちょっと行って来るね!」
「お、おい、天音!?」
「咲ちゃん!」
早く行かないと見失っちゃう!

 

***

 

「はあ……」
咲ちゃんを探しに駆け出したのはいいものの、神社の本殿へ向かう道の脇にあるお稲荷さんまで来た所で、咲ちゃんの姿を完全に見失ってしまいました。
「咲ちゃん! どこ? どこにいるの?」
呼び掛けてみても聞こえるのは、遠くに聞こえる祭囃子の音ばかりで返事はありません。
「……」
仕方なく私は、境内のお社に腰を下ろました。
木々に囲まれたこの小さなお稲荷さんは、神社の本殿へ向かう道に連なる屋台の明るさや喧騒からは切り取られ、静かな雰囲気を放っています。
……もう、帰っちゃったのかなあ。
せっかく来てくれたのに、このまま会えないまま終わっちゃうなんて、そんなの嫌です。
「咲ちゃん……」
その時、背後から微かに物音が聞こえ、反射的に私は振り向きました。
「咲ちゃん!!」
見れば、社の裏の茂みの奥から、咲ちゃんが伏し目がちにこちらを見ていました。
「咲ちゃん、探したんだよ!」
私は嬉しくなって、咲ちゃんのそばに駆け寄りました。
「姫子……」
「やっぱり来てくれたんだね。良かったぁ、咲ちゃんが来てくれて、私すごい嬉しい!」
「……」
咲ちゃんは何も言わず、じっと私の顔を見ています。その顔がどこか悲しげで、私は少し不安になりました。
「……ちょっと、座って話そう」
咲ちゃんはそう言うと、さっきまで私が座っていたお社の縁に座りました。
私も続いて、隣に腰掛けます。
「この神社。ちっちゃい頃の達也とあたしの遊び場だったんだ」
近くの木の柱を愛おしむように撫で上げると、咲ちゃんは、ふと優しい目をして語り始めました。
「あたしと……宇喜田達也は幼なじみなの。家が近くだったからさ。お互い親が共働きだったのもあって二人でここでかくれんぼしたり、色々遊んだんだ」
「……」
「お父さんが不倫して……そのショックでお母さんが自殺した時も、家に帰りたくないってワガママ言ってここで泣いてるあたしの隣に、ずっと、ずっといてくれたの」
咲ちゃんの言葉に、私はいつぞやに聞いたウワサの事を思い出しました。
咲ちゃんは……辛いであろう過去の話を、なぜ今私に話すのでしょうか。
「……優しいんだ、達也は。姫子と一緒でさ」
「私と一緒?」
「うん」
私と宇喜田君が一緒……?
「達也と姫子って、ほんっと似た者同士よ。お人好しでいつも自分の事じゃなくて他人の事ばっかり考えてる」
「そうかな?」
「そうよ。達也の幼なじみのあたしが言うんだから間違いないって!」
「……」
咲ちゃん、何だか変です。
どうして急にこんな話を……。
「……今日ね、実はずっと姫子達の事、遠巻きに見てたんだ」
「え、そうなの!?」
「うん……達也とあんた。初々しい中学生カップルって感じで、傍から見てもすごいお似合いだった」
「そ、そんなこと……咲ちゃんの方がずっと……」
「あたしはダメ。あたしは色々汚れちゃったもん。あんたも見たでしょ、この間の男。あたし、ああいう男と寝て、お金もらったりしてるんだもん」
「……な、何を言ってるの、咲ちゃん?」
容赦なく告げられる咲ちゃんの言葉に、私の心臓は鼓動を増すばかりです。
咲ちゃん……咲ちゃんは、一体何を言おうとしてるの?
「一つ聞かせて。姫子、達也の事が好きなんでしょ?」
「……!」
まっすぐこちらを見据えた咲ちゃんの瞳は、ガラス玉のように澄んでいました。
そしてその瞳の奥に、爛々と燃える意志の炎が揺らいでいるのが、はっきりと見えたのです。
「私……私は……」
けれど私は、咲ちゃんの言葉に答える事が出来ないまま、俯き、下を向きました。
「……なんであんたはこんな時まで、あたしに気を使って本当の気持ちを言わないの!? どこまでお人好しなのよ、あんたは……!
あたしは達也が好き! ずっと、ずっと好きだったの…! でも、あたしなんか達也にふさわしくないのは分かってる……だから…だから、あんたの口から達也の事が好きだって聞かせて欲しいの。そしたらあたし、達也の事を諦められるから……ッ!!」
「咲……」
不意に聞こえた声に、咲ちゃんの動きが止まりました。
「た……つや……」
大きく見開かれた咲ちゃんの目が、宇喜田君の姿を捉えました。
話に夢中になっていた咲ちゃんは、宇喜田君が来た事に気付いてなかったのです。
「今の……聞いてたの?」
わなわなと震える薄い桜色の唇から、咲ちゃんの消え入りそうな声が漏れました。
「あ、ああ。咲、あのさ……」
「いやああぁっ!!」
「咲!!」
宇喜田君の言葉を最後まで聞かずに、咲ちゃんは勢いよくその場から駆け出してしまいました。
一瞬、咲ちゃんの後を追おうとした宇喜田君でしたが、私がその場にいる事を思い出したのか、こちらへ視線を向けました。
「行ってあげて。……咲ちゃんが追いかけて欲しいのは、宇喜田君だもん」
「天音……ごめん、ありがとう」
「……」
本当は、ずっと知ってたんだ。
宇喜田君も咲ちゃんを好きな事。
だって宇喜田君、いつも咲ちゃんの事、見てたもんね。
……まただ。また、お腹が痛い。
これは、私の中が抉られる痛み。
私のお腹の中にいるどす黒い何かが、私を内側から食べようとしている。
食べられた私の内側は、血となって流れ落ちるのだ。

私の体の中を、空っぽにするまで。

 

***

 

その日の夜、また一軒の家が燃えました。
夏の夜空に、血のように真っ赤な炎をはためかせながら。
遠くで聞こえるサイレンの音を子守唄に、私は久しぶりにゆっくりと眠りにつきました。

 

9 初恋

翌日。
新学期一日目の教室は活気がなく、しんと静まり返っていました。
窓際の机に置かれた花瓶の花だけが、風に揺れその花弁を机上に散らしています。
教頭先生の話を聞き流しながら、私はぼんやりと花が風に揺れる様子を眺めていました。
退屈で緩慢な授業。早く放課後にならないかな。

 

***

 

「姫子……」
放課後、咲ちゃんの家へ向かいインターホンを押すと、咲ちゃんが出てくれました。
少しやつれた様子でしたが、私が持って来たプリントをちゃんと受け取ってくれました。
良かった。
もしかしたら、出て来られないかもしれないと思って、少し心配だったんです。
「咲ちゃんこれ、今日の学校のプリントだよ」
「……ありがと」
「ねえ、咲ちゃん。少し上がってもいい?」
「……」
咲ちゃんは無言のまま、頷きました。

 

***

 

部屋の中に入ってからも、咲ちゃんはどこか焦点の定まっていない目で、部屋の天井をぼうっと見つめています。
私は何をするでもなく、ただ咲ちゃんのそばにいました。
「達也……」
やがてぽつりと、咲ちゃんが宇喜田君の名前を漏らしました。
「なんで……なんで達也、死んじゃったんだろ……」
「……」
「放火だなんて……嘘だよね? 達也、本当は生きてるよね?」
口元に笑みを作り、咲ちゃんは潤んだ瞳で私を見つめています。
「だって……だってさ。昨日、ずっと一緒だったんだよ? あの後、達也が追いかけて来て……達也も、私の事が好きだって言ってくれて……ごめん、ごめん姫子。姫子だって辛いはずなのに、こんな事話して、ほんとごめん……」
「咲ちゃん……」
私は、肩を震わせ涙を流す咲ちゃんを優しく抱き締めました。
「私がずっとそばにいるよ。宇喜田君の代わりにはならないかもしれないけれど、私は咲ちゃんの事を絶対裏切らないし、淋しい思いだってさせないから」
「……ごめん…ありがとう姫子……」
私に抱き締められながら、咲ちゃんは何度も何度もコクコクと頷いていました。
窓から差す光に照らされ、咲ちゃんの柔らかな髪は銀糸のような煌めきを放っています。
それは、一瞬で心奪われたあの時の光景を彷彿とさせました。

 

生まれて初めて、好きな人が出来ました。
その人は窓際の席に座っていて、いつも窓の外を眺めていました。
窓から差し込む日の光に当たって、その人の髪はキラキラと天使の輪みたいに輝いて……。

 

その長い髪に触れたかった。
私だけのものにしたいと思ったの。

 

「咲ちゃんの髪、とっても綺麗だね」
私は、そっと咲ちゃんの髪に触れました。
長く艶やかな彼女の髪は、見ているだけでうっとりします。
咲ちゃんは何も言わず、私に体を預けたままじっとしています。
彼女の髪を撫でながら、私も咲ちゃんと同じくらい髪を伸ばそうと思いました。
もう私の髪を切ろうとする人はいないから、髪も伸ばせるだろうし。
これまでもこれからも、私と咲ちゃんの邪魔する奴は、全員私が始末してあげるからね。
「咲ちゃん。私、咲ちゃんの事、大好きだよ」